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(妓生)売春は朝鮮国家の国家事業だった!

朝鮮2000年以上の植民地(冊封国さくほうこく)の歴史

 朝鮮では紀元前3世紀頃、中国の漢(かん)時代初期に衛氏朝鮮が冊封(さくほう・植民地のこと)されて以来、1895年に日清戦争で日本が清を破り、下関条約によって朝鮮を独立国と認めさせるまで、ほぼ一貫して中国の冊封国でありました。
その冊封時代の歴史は、朝鮮人が中国人を女性で接待する歴史だったのです。
貢物として差し出してきた【貢女(コンニョ)】。
接待に使った【妓生(キーセン)】がそうです。
慰安婦の強制連行で言われているような少女や処女狩りが2000年以上昔から行われていたのです。

妓生(きしょう、기생、キーセン)の歴史

妓生は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕などをするために準備された奴婢(ぬひ・奴隷)の身分の女性(「婢」)のことをいいます。
高麗から李氏朝鮮末期まで約1000年間、常に2万~3万名の妓生がおり、李朝時代には官婢として各県ごとに10~20名、郡に30~40名、府に70~80名ほどが常時置かれていたそうです。

妓生庁まで作った。

高麗時代 (918年-1392年) に、中国の妓女制度が伝わり朝鮮の妓生制度になりました。
官妓 (女官)・官婢の中で容姿の優れた者を選別し、歌舞を習わせ女楽 (高麗女楽) としました。
高麗は政府直属の掌学院を設立し、官妓らはそこに登録され、歌舞や医療などの技芸を担当しました。
李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行いました。
李氏朝鮮の妓生は高麗女楽をルーツにしており、宮中での宴会に用いる為の官妓を置き、それを管理するための役所妓生庁が存在していました。
一般的に、妓生は両班(階級制度で支配階級)を相手とするため、歌舞音曲・学問・詩歌・鍼灸などに通じている必要がありました。
今の北朝鮮でいえば「喜び組」や「モランボン楽団」でしょう。

明を支援した李氏朝鮮が清に敗北後に結んだ降伏条約により、清の使者を歓待する妓生は処女以外認められず、違反が発見されれば使者は罰則を言い渡す権利を持っていました。
使者は妓生を母国に持ち帰ることもできたそうです。
李氏朝鮮では厳格な儒教思想が広まっており、処女ではない女性の結婚は非常に困難でした。
幸運にも妾として迎え入れられる場合もあったものの、妓生になった場合、他の身分になることは困難であったそうです。
帰宅した場合、家族が一族の名誉のために女性を殺害していたそうです。

今でもその風習が根強く残っており、韓国では風俗で働くことを家族や一族で知られることを凄く嫌っております。
一族の恥になるのです。
その影響で海外で売春行為や風俗に従事する韓国女性が多いのでしょう。
韓国に帰るとまるで何もなかったように振る舞います。

10代国王燕山君と妓生

李能和によれば、李王朝の歴代王君のなかでは9代国王成宗とその長子である10代国王燕山君(ヨンサングン、えんさんぐん)が妓娼をこよなく愛したそうです。
燕山君は名寺刹円覚寺を潰し、妓生院を建て、全国から女子を集め大量の妓生を育成しました。
燕山君の淫蕩の相手となった女性は万にいたったともいわれ、晩年には慶会楼付近に万歳山を作り、山上に月宮をつくり、妓生3000余人が囲われたそうです。
燕山君の時代は妓生の全盛 (絶頂) 期ともいわれます。


国家を上げて管理していた朝鮮王朝

妓生(きしょう、キーセン)現代では朝鮮半島の娼婦を指す言葉で一部が日本の芸妓に当たります。
清の皇帝からの使者や高官を歓待するために準備された日本で言う花魁から遊女にいたるまでの女性賤民身分(せんみん・身分の低い人)でした。
初潮前の少女を妓生とすることも多かったが、日韓併合後に、少女を妓生とすることを禁止しました。
大韓帝国の時代までこの風習は続きましたが、日韓併合後には日本によって日本の公娼制度に組み入れられました。

日韓併合まで続いた妓生制度。
日韓併合が無かったら、日清戦争が無かったら、今の時代も中国の植民地かもしれません。
中国と日本に管理されて成長してきた韓国。
独立国家としては、小学生かもしれませんね。

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