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朝鮮が中国に献上していた「人間の献上品」こと「貢女」(コンニョ)の実態

朝鮮2000年以上の植民地(冊封国さくほうこく)の歴史 

朝鮮では紀元前3世紀頃、中国の漢(かん)時代初期に衛氏朝鮮が冊封(さくほう・植民地のこと)されて以来、1895年に日清戦争で日本が清を破り、下関条約によって朝鮮を独立国と認めさせるまで、ほぼ一貫して中国の冊封国であった。

「貢女」(コンニョ)の歴史

「貢女」(コンニョ)とは、中国に献上しなければならなかった「人間の献上品」こと。
高句麗・新羅から中国の北魏に、女子を送ったという記録がある。
貢女の献上が最も盛んに行われたのは、高麗後期から朝鮮王朝時代にかけてだった。

高麗時代の元宗15年(1274年)、元が140人の婦女を連行したのを皮切りに、忠烈王・恭愍王代に元に対し献上した貢女は170人以上、44回に上った。
朝鮮王朝時代にも、太宗から孝宗の時代にかけて、明・清に対し9回にわたり146人が献上された。
学界では、中国の高官が私的に連れて行ったケースを合わせると、数千人に上ると推定されています。

処女狩りの歴史

中国から、貢女を選ぶ「採紅使」が訪れると、朝廷では貢女選抜機関を臨時に設置し、巡察使が各地を物色して回った。
だが、民衆の抵抗もすさまじく、いろいろな手を尽くして、自分の娘を守ろうとした。

  • 娘が生まれたら秘密にしたまま暮らす。
  • 他人に知られるのが心配で、隣人にも娘を見せられない。
  • 娘を隠していた事実が発覚すれば、村全体が害を被ることになる。
  • 親族を縛って取り調べ、屈辱を与える。
  • 処女を選ぶ過程でわいろが取り交わされ、金がある者は切り抜け、金がない者は連れて行かれる。
  • 娘が候補になると、顔に薬を塗って傷を付ける。
  • 娘を出家させる。
  • 子供の娘でも早く嫁がせる。
そのため朝鮮王朝時代には、世宗が「12歳以下の女子については婚姻を禁ずる」という法令を公布しなければならないほどだった。 
朝鮮王朝時代の太宗は、「処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者など、選抜から免れようとした者」について、厳罰に処するという号令を下した。

中国は大陸に新たな権力が誕生したり、国内の国家権力が不安定になるたびに貢女を要求した。
高麗や朝鮮の新たな支配者にとって、大国の承認を得ることは最大の急務だったのだ。
世宗でさえ、貢女の献上は「国内の利害のみならず、外国にも関係することなので、ただ(中国皇帝の)令に従うのみ」と語った。

ソウル大学奎章閣のイ・インスク人文韓国(HK)事業研究教授は、今月末に出版される『朝鮮人の海外旅行』(文字の甕社)で、『高麗史』と『朝鮮王朝実録』を中心に貢女の残酷な実態をまとめた。
イ教授は「貢女は、中世国家の欲望と男性の欲望が凝縮された国家間の力学関係から生じた副産物。
特定の時期に起こった事件というレベルを越え、その後も“慰安婦”、“洋公主(米兵を相手にする歓楽街の女性)”のように、強大国と弱小国の間で繰り返されてきた」と語った。

韓国での歴史のねつ造される中で、どこまで韓国国民に知らされている事実なのか。
朝鮮の「貢女」(処女狩り)の長い間の歴史の中で、若い女性を調達する能力にたけた
朝鮮人が、慰安婦の募集に一役買ったのでしょう。
中国の植民地だった2000年の歴史の屈辱を慰安婦問題で日本に向けているのかもしれません。
本来ならば、恨むのは中国のはずです。
「日韓併合」で中国からの長い植民地支配から救った、日本に感謝してもらえるはずなのですが・・

このほかにも、朝鮮には妓生(キーセン)の事実があります。
高麗から李氏朝鮮末期まで約1000年間、常に2万~3万名の妓生。
中国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕などをするために準備された奴隷のような身分の女性達の事です。

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