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韓国人による韓国人大虐殺の事実(韓国・日本の学校で教えない歴史)


現在は美しいリゾート地として知られる韓国最南端・済州島。
だが、朝鮮戦争と前後して、李承晩大統領による徹底的な弾圧を受け、人口が9分の1になる「地獄」を経験した島でもあります。

少し歴史を見てみましょう。
1910~1945年:韓国併合条約によって、日本は35年間にわたって、この朝鮮半島を支配してきました。
1945年8月15日:大日本帝国がポツダム宣言の受託を宣言し、敗戦します。 
1945-1948:アメリカ軍政庁期(連合軍軍政期、非独立)
1948年8月13日:アメリカ合衆国の承認を得て李承晩(り・しょうばん、イ・スンマン)が大韓民国の独立を宣言し アメリカの軍事政権からの独立します。
1950年:朝鮮戦争勃発

済州島の大虐殺は、1948年4月3日に起きました。
これが「済州島、四・三事件」と呼ばれています。


大韓民国がアメリカ合衆国から独立を宣言する4か月前のことです。
又、朝鮮戦争が勃発すると、「朝鮮労働党党員狩り」が始まります。

その経緯は
1945年9月2日に日本が連合国に降伏すると、朝鮮半島はアメリカ軍とソ連軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれました。
この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成の北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつありました。

李承晩は北部との対立を後回しにして、南部単独で国家樹立を先行させるべきと考えていました。(南朝鮮分離独立派)
一方、そのようなことをしてしまえば、民族が分断されることになりかねないとして反対する者もかなりいました。(北の朝鮮統一派)
その代表が金九(キム・グ)や金奎植(キム・ギュシク)や呂運亨(ヨ・ウニョン)でした。(金九と呂運亨はその後、李承晩派とみられる 人物によって暗殺されます)。

分離独立派と、南北統一派の分裂抗争

ここで、朝鮮半島内で南北の分離独立派と、南北統一派の分裂抗争になるのです。
朝鮮戦争は、南北統一を図る北朝鮮が、ソウルに進行したことによって始まった戦争です。

済州島は、歴史的に権力闘争に敗れた者の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮半島から差別されてきました。
簡単に言えば、済州島には北朝鮮系の島民や韓国のやり方に反対する島民が多かったということです。

1945年9月10日、北朝鮮系の朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められました。
1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きました。
この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行され、これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体「西北青年会」を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになりました。

「西北青年会」とは、「反共産主義」を掲げる右翼団体です。
特に西北青年会は反共を掲げて島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図りました。
島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こしたのです。

済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されました。
政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)韓国本土でも戦闘が行われました。
その際に日本への密航者が多数生じるこになりました。
済州島では韓国軍などにより蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行いました。
これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。
韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われています。

8万人の虐殺

1950年に米軍から朝鮮半島を解放すべく朝鮮人民軍が進撃し朝鮮戦争となると「朝鮮労働党党員狩り」は熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測されます。
又、島の70%が焼き尽くされたといいます。
また、保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害されました。
海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されたそうです。

28万人が3万人に減少

貧しかった済州島民は韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったといいます。
四・三事件発生後は日本などへ避難し、そのまま在日韓国人となった人々も多いです。
日本へ逃れた島民は大阪市などに済州島民コミュニティを形成しました。
彼らは済州島出身者以外の韓国人コミュニティからは距離を置いていました。
済州島では事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされています。

戦後の日本の混乱期に、在日韓国人に達によるやりたい放題の無秩序の状況。
朝鮮半島に居るよりかはよっぽど居心地の良かった日本。
難民受け入れとまではいかない状況での、移民受け入れ。
日本が韓国にしてきたことは、測り知れません。
強制連行の歴史どころか、不法入国、難民受け入れの事実なのです。

彼ら済州島出身者の多くが、大阪市生野区の鶴橋に定住し、コリアタウンを形成していきます。
どうして、鶴橋だったのでしょうか。
1920年代から大阪市の市域拡大開発が続き、生野区などの西部地域で大規模な土木工事が展開されました。
朝鮮人の出稼ぎ労働者もこの土木工事に積極的に受け入れられ、当時から朝鮮人集落の原形がいち早くできていました。
その後も集落は発展していき、1948年の「済州島虐殺事件」後、多くの済州島民が鶴橋を頼り、移り住んだのです。
事情を理解していた大阪市側も、彼らにさまざまな行政的支援を与えています。
鶴橋のコリアタウンは、その存在そのものが、韓国の凄惨(せいさん)な戦後史の証人なのです。

膨大な数の在日韓国・朝鮮人の中で、済州島出身者が圧倒的な割合を占めるのは事件後、難民となり日本に逃れ、そのまま居座った非合法・合法の人々数千人(数万人説アリ)が原因であると言われています。

いつも観光客でにぎわう、大阪・鶴橋のコリアタウン。
おいしい焼肉店や各種の韓国食料品店、美しいチョゴリを売る店など、本場の韓国さながらの雰囲気が人気です 。
 一方で、実はこの街の成り立ちそのものが、韓国の悲しい歴史と深く関係しているのです。
今の在日韓国・朝鮮人の人々のうち、済州島の出身者が大きな割合を占めると言われます。

李承晩政権下の自国民虐殺事件はこれだけではありません。主なものだけでも、以下のようなものがあります。
 ・高陽衿井窟民間人虐殺事件(1950)
 ・江華良民虐殺事件(1951)
 ・山清・咸陽事件(1951)
 ・居昌虐殺事件(1951)
 これらは共産主義者やそのスパイ、北朝鮮に協力したと見なされた一般民間人を、当局が処刑・虐殺した事件です。
ただ、それは建前上の理由であり、実際には、政府に批判的な人々やその家族を消すということが目的でした。
日本統治時代の親日派も処刑されています。

韓国の反応


事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明であります。
韓国大統領となった盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪し、済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会を設置しました。
いまだに韓国内の国民がどこまで事実を知っているのか不明ですが、公表されたくない事実です。

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