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明治維新が日本を植民地から救った事実。

明治維新は、長年続いて平和ボケしていた江戸幕府に終止符を打った。
欧米諸国の植民地争奪戦に巻き込まれないように、外国から日本を守ろうとする人達の改革だったのです。
江戸幕府を倒すのが目的ではなかったのです。
欧米諸国から日本を守る為に起こした改革だったのです。
明治維新の前に、長州藩や薩摩藩がイギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊と戦争を起こしていた。
勉強していたようで、全然知らなかった事実。
明治維新が日本を救ったと言っても良いのでしょう。


日本を取り巻く明治維新までの流れ
  • 1840年~1842年:阿片戦争
    中国(当時の清国)は、イギリスにより阿片(アヘン)を大量に密輸され、国中を藥づけにされます。
    阿片戦争の結果、香港はイギリスの植民地になります。
    清朝の敗戦は長崎に入港するオランダや清の商人を通じて幕末の日本にも伝えられます。
    西洋諸国の軍事力が東洋に比して圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になります。
  • イギリスに後れを取ったオランダ、フランス、ロシア、アメリカなど欧米諸国がアジアに押し寄せます。
  • 1853年:黒船来航
    ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した。
  • 1863~1864年:下関戦争
    幕末に長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊との間に起きた戦争。結果的に長州藩が負けることとなります。
    結果負けはしましたが、1つの藩が4か国に戦いを挑んでいく、日本の強さを見せつけることにもなりました。
  • 1863年:薩英戦争(さつえいせんそう)
    英国と薩摩藩の間で戦われた戦闘。
    結果薩摩藩は英国に負けたが、人的被害は英国の方が多かった。
    更に薩摩藩に一度も上陸出来なかった英国は事実上の敗北を感じることになります。
    この戦いの結果、英国も薩摩藩を認め、講和を結ぶことになって行きます。
  • 1866年:薩長同盟
    外国と戦って外国の戦力も把握できた長州と薩摩藩は、坂本龍馬の仲介もあり、薩長同盟を結びます。
    「日本という国を外国の脅威から守るためには、幕府を倒して新しい仕組みをつくるしかない」という考えになって行くのです。
  • 1867年:大政奉還
  • 1868年:明治元年
大きな流れはこんな感じですが、ペリー来航からほぼ10年で歴史が大きく変わります。
薩摩藩が琉球やイギリスとの交易で、長崎や下関の開かれた港町で海外からの情報が沢山入ってきたので、外国の植民地にされてしまうという危機感が芽生えたのでしょう。
下関戦争と薩英戦争の結果。外国の戦力を思い知らされた結果。
着々と世界と戦える日本の軍備を整えて行くのです。

阿片戦争(アヘンせんそう)は、清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争です。
アヘン戦争とは、産業革命で発展した英国は製品の輸出先を開拓すべく東南アジアに進出していきました。
中国(当時の清国)とも交易を開始したが、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していたが、英国から清国に輸出する物がなかったのです。
貿易摩擦で赤字を膨らませていた英国はインドで生産した麻薬のアヘンを密輸することで赤字を解消しようとしました。
清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していきました。
 アヘンの密輸禁止の規制を強めるも効果がなく、英国と清国の戦争に発展します。
 アヘン戦争の結果、清国が英国に敗れました。
 アヘン戦争は1次と2次に行われ、2次のアロー戦争では英国とフランスの連合国と戦い、アメリカ・ロシアは、戦争には加わらないものの条約改正には参加すると表明しました。
 結果、清国は欧米の先進国に不平等な条約を締結され、占領状態になっていくのです。

黒船来航(くろふねらいこう)
嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。 日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。

下関戦争(しものせきせんそう)
幕末に長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた戦争です。
文久3年(1863年)と同4年(1864年)の前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。
歴史的には、1864年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)と呼びます。
1863年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多い。
今日では1863年のことを下関事件。
1864年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別しています。
また両者を併せた総称として「下関戦争」が使われています。
その影響で「馬関戦争」が総称として使われることもある。

薩英戦争(さつえいせんそう)

文久3年旧暦7月2日–4日(1863年8月15日–17日))英国と薩摩藩の間で戦われた戦闘。
文久2年旧暦8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫る英国と、攘夷実行の名目のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを阻止しようとする島津兵が、鹿児島湾で激突した。
薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、人的損失は最小限にとどまり、陸戦隊の上陸を一歩も許さずに艦隊を横浜に追い返すという予想外の善戦を見せた。
この戦闘を通じて英国と薩摩国の双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して和平を結び接近してゆく契機となった。
薩摩藩は、薩英戦争の経験から攘夷は不可能であると判断し、開国に論を変え、藩力の充実と先進技術の取得に努めることになった。
長州藩は下関戦争の後尊皇論を基盤に藩論は攘夷で維持していたが、1865年、日米修好通商条約に孝明天皇が勅許を出したことにより尊皇と攘夷は結びつかなくなり、攘夷の力が失われた。
土佐藩の坂本龍馬らの仲介があって、薩摩藩と長州藩は和解、倒幕の密約を結ぶ。後、西の諸藩が倒幕の元に結集する。

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