そう3月1日は、韓国の「三・一独立運動」100周年の記念日なのです。
三・一運動(さんいちうんどう)は、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で発生した日本からの独立運動のことです。
独立万歳運動や万歳事件(日本では三・一事件、三・一独立運動)とも呼ばれています。
大韓民国では3月1日を三一節として祝日になっています。
万歳の日とは
三・一運動の直接的な契機は、大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)の高宗の死でした。彼が高齢だったとはいえ、その死は驚きをもって人々に迎えられ、様々な風説が巷間でささやかれるようになるのです。
その風聞とは、息子が日本の皇族と結婚することに憤慨して自ら服毒したとか。
あるいは併合を自ら願ったという文書をパリ講和会議に提出するよう強いられ、それを峻拒したため毒殺されたなどといったものである。
実際のところはそのような事実はなかったのだが、そうした風説が流れるほど高宗が悲劇の王として民衆から悼まれ、またそれが民族の悲運と重ねられることでナショナリズム的な機運が民衆の中に高まったことが、運動の引き金となったのです。
天道教やキリスト教、そして仏教の指導者たちが中心となり、高宗の急死後、国葬が行われる3月3日に向けて独立運動が計画されるようになりました。
3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画しました。
実際には仁寺洞の泰和館(テファグァン)に変更され、そこで宣言を朗読し万歳三唱をしたそうです。
参加者は、宗教家の33名で、しばしば民族代表33人といわれています。
【独立宣言】
吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進しました。
道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったといいます。
以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及びんだ結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開されました。
これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たりました。
3月から5月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上りました。
運動の初期には、その発生は大都市に集中し、担い手は学生や教師といった人々が主導し運動が広がりを見せ、地方都市や農村に舞台が移るようになると参加する人も多様となり、農民や労働者、商工業者、官僚、両班などが参加するようになりました。
独立宣言にあったように当初は平和的な手段によって運動を行っていましたが、次第に警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われ、暴徒化していったのです。
日本側は憲兵や巡査、軍隊を増強し、一層の鎮圧強化を行いました。
朝鮮総督府当局による武力による鎮圧(弾圧)の結果、運動は次第に終息していきました。
当局の手を免れた活動家たちは外国へ亡命し、彼らの国内における独立運動は挫折しました。
「大韓民国臨時政府」の誕生
その流れで、中国の上海で中国の資金援助を受けて「大韓民国臨時政府」が組織されるのです。大韓民国の現行憲法の前文には「大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統」と「4・19民主理念」を継承すると書かれており、大韓民国臨時政府を現・大韓民国の前身と位置づけているのです。
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